毎年、9月に富山県の射水市(旧小杉町)の旧北陸道沿いでは、アートのイベントが行われています。

小杉焼タイトル
旧北陸住還道筋絵図

     ↑射水郡砺波郡御鷹野道 見取絵図 高樹文庫より

旧北陸道の往還道筋(おうかんみちすじ)

旧北陸道の往還道筋(藩主が参勤交代でった道)は、加賀金澤から、倶利伽羅峠を超えて越中へ入り、今石動、福岡、立野を経て高岡町城に入る。一里塚
千石町、横田町から高岡市街を通り蓮華寺を経て庄川を渡り大門新町を通って大島地内を通って小杉三ケの一里塚へ出る。

旧 小杉町では、この一里塚から、今は小杉高校のグランドを抜け、水源町、上新町、諏訪町、白銀町、本中町、常盤町と三ケ地内を経て、戸破地内へ入り
中町、茶屋町から下条川を渡って荒町、西楠町、鍛冶屋橋、末永町、北手崎を通って手崎加茂社前へ出る。
この手崎加茂社の分岐点から「左いわせ道」を進と、鷲塚、小白石、大白石、倉垣小杉をかすめて下村(宿宿)へ出る。

下村からさらに三箇(三十三箇)をかすめ、道番、利波新、八町、布目、八幡へ出て神通川の舟渡しから対岸の千原崎へ出て東岩瀬へ出る。

この道筋が旧北陸道の住還道筋である。 道しるべ

なお、手崎加茂社前の分岐点「右とやま道」を進むと、西二俣、願海寺を経て、野町、吉作を通り、追分茶屋へ出る。
願海寺までが旧加賀藩領で、願海寺の七曲りを経てその東端、野町境が加賀藩と富山藩との境で、野町から東が富山藩領である。
加賀藩主が、分藩とはいえ富山藩領を通らず加賀藩領の「左いわせ道」を通った、この「左いわせ道」こそが住還道筋である

三ケの一里塚

いにしえの一里塚一里塚は、街道に沿って一里(約4㎞)ごとの設けられた里程標である。「越中国四郡絵図」に新開発村と小杉三ケ村の間に一里塚とみられ丸印が道の両脇に描かれている。
 昭和38年頃までは、その南側丸印のあたりに、裾回りが6~7m、高さ1.5mの塚が水田の中にあり、その上に老杉が立っていた。
 現在は周囲が埋め立てれ塚の形状はうかがえないが、当時一般的であった榎が植えられいる。
平成10年、本開発地内で北陸街道の発掘調査が行われ、道路幅は約2.7m(九尺)で、両側に幅1.8m~2.8m、深さ40~70cmの溝が掘られていた。一里塚から小杉高校グランドまでは、今も2.7mの泥道が残っている。

過去に加賀藩の参勤交代の行列(2000人余り、多い時は4000人)が通っていた。時期は4月が多く、高岡、魚津の間には11里30町があったという。

小杉宿

明暦4年(1658)5月、戸破村と三ケ村の間の畠地に近在の村から百姓の次男、三男などが出て、小杉新町の建設が始まった。12月には現在の本中町から茶屋町までの間に街道の両側に沿って100軒の家並みが連続でできた。
寛文12年(1672)には、高持百姓が移住し、街並みは、諏訪町、白銀町、荒町へと拡充された。
延宝2年(1764)には市立てが認められ、下条川水運を利用した商品流通によって商業の発展んが図られた。
その結果家数はしだいに増加し、享保5年(1780年代)には320軒、天明期には、401軒 幕末には450軒を数えた。
 赤壁邸は、寛政元年(1789)創業といわれ、その店構えは宿場町の面影を残している。
赤壁邸
    ↑今も旧北陸道の面影が残る赤壁邸

街道筋には、本陣(大名・勅使などの宿泊・休憩施設)、旅館(一般庶民の宿泊施設)、茶屋が置かれ、中町に高札場があった。十辺舎一九が文政11年((1828)に著した「方言修業金草鞋」には、菊屋という評判の茶屋があったことが記されている。

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